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「レトリックと詭弁」から議論術を考える②

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今回は香西秀信「レトリックと詭弁」から議論術を考えていきます。 

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

 

色々な議論術

今回は本書の中で紹介された色々な議論術について考えていきます。

多問の虚偽

問う側が何らかの前提を置いて質問を行った際、その質問に答えると、問う側の設定した前提を認めてしまうことになることがあります。

本書の中で紹介されている例では、「君は、もう奥さんを殴っていないのか?」というものです。この問いは形式上、「はい」か「いいえ」という答えを要求します。このときどちらで答えても、過去に奥さんを殴っていたことを認めることになります。
外形的には一つに見える問いの中に、「奥さんを殴ったことがあるか?」と「今はもう殴っていないのか?」という二つの問いが含まれていると解釈できます。このため多問の虚偽複問の虚偽と呼ばれているとのことです。ただ「虚偽」と言ってますが、必ずしも虚偽でないこともありえます。先の例でいえば、過去に奥さんを殴ったことがあれば虚偽ではないのです。

このような問いの場合は、答えることで事実の如何にかかわらず、問う側の設定した前提を認めたことにされることがあるのです。

このタイプの問いに答える者は、外形的な答え以上の言質を相手に取られてしまうことになるのです。逆に、問う側からすれば、これによって問うた以上のことを答えさせることができます。
(第三章: P93)

このような問いには、その前提について否定して言い返すことで対応ができるでしょう。ただ注意が必要なのは、このような問いを印象操作に利用されることです。この問いのやりとりを聞いていた第三者がいる場合、否定したとしてもその印象が残ってしまうことがありえます。
「君は、もう奥さんを殴っていないのか?」という問いに、「そもそも、奥さんを殴ったことがない」と答える分には良いですが、「そもそも、奥さんは殴ったことがない」と答えると奥さん以外で殴ったことがある人だと印象付けられてしまいます。
また第三者が「火のない所に煙は立たぬ」といった考え方を持つ傾向があれば、この問いをされること自体が、答える側を暴力的な人間なのではとの印象を持つことになってしまうかもしれません。

立証責任と不当予断の問いと責任転嫁

ある主張に対して、その根拠を説明を立証することは労力がかかることがあります。問いの形式をとることで、立証の責任を強引に相手側に委譲してしまうことができます。

「あなたの行為は、道理に適っていない」と発言したとき、それが道理に適っていないことを論証する責任はこちら側にあります。だが、これを「あなたの行為は、道理に適っていると言えますか」と相手に問いかけたら、相手がその問いを肯定した場合、その行為が道理に適っていることを論証する責任は、形式上は相手側に移行します。
(第一章: P50)

自分の主張を問いにすることで、このような効果があります。責任の転嫁は、問いという形式が議論術として働くときの重要な作用の一つとして説明しています。

相手が思わず答えることで、この立証責任を相手に委譲する問いを不当予断の問いとして紹介しています。

不当予断の問いは、われわれが日常議論において最も注意しなければならないものの一つです。これが見破りにくい虚偽形式だからではありません。簡単に見抜け、容易に反論できるものだからです。
(第三章: P94)

本書では先の多問の虚偽と合わせて、不当予断の問いを説明しています。「君は、Kの、あの下らない議論術の本を読んだのかい」という問いは「はい」か「いいえ」のどちらで答えても、Kの本は下らないことを認める多門の虚偽となっています。
注意が必要なのはこれに言い返す(retortする)場合です。答える側がこの本の事を素晴らしいと思っていて、「Kの本が下らないとは思いません」と答えてしまうと最悪の結果となります。この答えによりKの本が下らなくない理由を説明する責任を負うことになるのです。「Kの本のどこが下らないのですか」と言い返せば、立証責任は問う側になります。不当予断の問いの危険性は、それがあまりに簡単に反論できるために、勢い余って立証責任を引き受けてしまいかねないことだと、注意を促しています。

少し違った方向で応用を考えると、ブレストなどで議論を活性化させる手法として使えるかもしれません。意見の少ない人から発言を引き出したり、違った視点や方向性に議論を発展させるために、誰でも反論できるような前提の問いを出してみるのです。簡単に反論ができるので、誰でも答えやすく、その答えを受けて更に議論を発展させていく手法です。

選択肢の詐術

二者択一のような選択肢を設定した問いは、答える側はそこにない他の選択肢を封じられることになります。問う側は自分に都合の良い言葉を使いながら、その選択肢の中から選ばせるように組み立てるのです。
議論術として利用されるとき、多くの場合、問う側は自分の狙いとする答えを選ばせるようにするため、答える側は一つしか選べないように組み立てられます。

選択肢の「一つを、好意的な見方によって提出し、その望ましい選択肢を、他の、拒否されるべき一つもしくはそれ以上の選択肢と対比して引き出せる」という技巧が使用されます。
つまり、選択せよと相手に迫りながら、選択の余地などないようなやり方で問いを出すのです。
(第三章: P97)

本書の中で選択肢の詐術として、カンニングが見つかり開きなおったの話(P30)や全面講和運動(P98)が例として示されています。全面講和運動ではその命名の妙に注目しています。ここでは「全面講和」、「単独講和」という名前を用いて二択にすることで、「単独講和」を選択しにくいように導いていることを指摘しています。実際には五十五カ国のうち四十八カ国と講和を結ぶことを「単独講和」と呼んでいたのです。

このような詐術は色々考えられます。会社のような組織体でグループ間や部署間での対立や争いの際、相手側から「組織のための行動か、自分たちのための行動か」といった問いがあったとします。この二択の場合そのまま「自分たちのためだ」とは選択しにくくしてます。これを更に言葉を変えて「みんなのための行動か、私利私欲のための行動か」とするとどうでしょうか。「組織」を「みんな」にすることで組織内だけでなく、顧客や取引先など外部までイメージする受け取り手がいるかもしれません。更に「自分たち」を「私利私欲」とすることでよりその個人の欲望が動機となっているかのように印象付けられます。
自分自身がこのような言葉を利用されて問われることに突然なるかもしれません。そのようなときの為にも、どのような言葉を使用して問うとどのような効果があるのか、色々な想定問答や思考実験を本書はすすめています。

ディレンマの活用

どちらも選択しがたい二つの選択肢からなる「二者択一」を組み立てることでディレンマに追い込まれます。レトリックの領域ではディレンマは一つの議論術と見なされるとのことです。

議論術のディレンマは全ての人にとってディレンマである必要はありません。議論の相手にとってディレンマとして成立すれば良いと言っています。

あるディレンマが、議論法として有効かどうかは、それを普遍的・一般的観点から考えてはならない。あくまでも、説得の直接の対象にとってどうかという点から判断しなくてはならない
(第三章: P110)

どちらを選択しても、答える側にとって不都合な結果を導くような状態は物語の中で良く見られます。「AかBかどちらか選べ」と言われディレンマに陥る登場人物です。本書の中でも夏目漱石の「鳴海仙吉」から引用されています。

ディレンマのかわし方として二つの方法を説明しています。一つはディレンマとなる二つの選択肢以外の第三の選択肢を見つける方法で、「ディレンマの角の間を抜ける」と呼ばれるものです。
もう一つは選択に伴う結果が必然でないことを主張する方法で、「ディレンマの角をつかむ」と呼ばれるものです。
しかしこれらの方法でかわせないこともあるでしょう。本書の中ではディレンマをかわす方法を思考実験として楽しむこと勧めており、それが議論術を学ぶ重要な目的の一つと言っています。

「お前も同じではないか」という論法

 「お前も同じではないか」とは、こちら側の行為などを批判してきた相手に対して、同じようなことをしてるではないかと相手に指摘することにより、こちら側への論法を封じる方法です。論理学の分野でも、伝統的に詭弁(虚偽)の一種として分類され、およそ推奨できるような論法ではないと、本書で紹介しています。

論理学の正道からは外れるものの、国家間の論争には積極的に使用するようにすすめています。

<<to quoque>>は発言内容ではなく発話行為を問題にしているのです。自国の「悪」には目をつぶりながら、他国の同様の「悪」は厳しく糾弾するというその不公平さを攻撃するのがこの論法の目的です。言い立てられた「悪」を弁護しようとしているのではありません。
(第五章: P155)

内容ではなく、その問いの行為を問題にしているのです。その問いは他にも平等に行っているのかと。

この他にもこの論法により、立証責任を相手側に負わせることができ、また事実を正確に認識させることができると言っています。
こちら側の行為だけをなぜ問題視するのか、またその理由はどのような根拠に基づいているのかを相手に説明させる責任を負わせることが可能です。この中で他のものとの事実関係を確認することになり、相手にも第三者にも事実を認識させることになると言っています。

あえて言わないふりをする

あえて言わないふりをすることでそのことを強調することができます。これは現実に色々な例がありますが本書の引用をそのまま紹介します。

・・・ドイツ語に関しては、実に早くから広く、深く、人の気づかない点にまで目をそいで研究された先生でした。(関口先生はドイツ語だけでなく、ラテン語、ギリシア語、フランス語その他の諸語、また一般にあまり知られておりませんが、古代、中世のドイツ語にも堪能であったことは、ここではふれずにおきます。書き切れなくなりますから。)
眞鍋良一「関口存男先生」
(第五章: P174)

「ふれずにおきます。」と書いておきながら、思いっきりふれています。しかしこれにより、印象付けられることになります。これは肯定的な例ですが、否定的なときにも利用されます。「彼は過去にこんな失敗をしていましたが、ここでは関係ないので省略します。」といったものです。
このように言っているのに言わないふりをすることで、通常の言及より印象付けることができるのです。実際、私も関口存男について検索したくなりました。特に「くそ勉強について」は凄みが伝わる文章ですが、ここではふれずにおきます。

後だしする

発言の機会が1回しか回ってこないような場合、後から意見を述べる方がより説得力を持つというものです。これは誰かの意見に対して、反論する機会がないために出てくる効果です。

実際の論の強さなど、順序がもたらす印象によってかき消されてしまかねないということです。
ここから、われわれは次のようなやや狡い原則を手に入れることができるでしょう。ある問題について、何人かで意見を言うときには、できるだけ一番最後に発言すべきである、と。それだけでも、あなたの発言は、実際以上に説得力のあるものに見えるはずです。
(第五章: P166)

後から意見を述べるということは、前の意見の中身だけでなく使用されている言葉を知ることができます。前の意見の言葉の効果を打ち消すような言葉を選択しながら、後から意見を述べることで、よりこの効果が大きくなるでしょう。

色々な修辞疑問を見つけよう

前回 の中で説明した修辞疑問ですが、色々な場面で使われでるのを気付くことができるようになります。修辞疑問とは疑問の形式をとりながら、その答えの内容を聞く事が目的でない問いです。

あるドラマの例です。仕事を遅刻してきた歯科衛生士が、その理由を説明したのですがどうにも個人的な都合で納得いくものでなかった歯科医。歯科医は「仕事なめてます?」と問います(これも修辞疑問です)。相手が答える前に歯科医は立て続けに同じような問いを言います。そして最後に「私、間違ってますか」と問います。これは正しく修辞疑問で、「間違っていません」と答えさせるために放った問いです。仮に「間違ってます」と答えた場合は、「どこが間違ってますか」と立て続けに問うことができるでしょう。
これに対して遅刻してきた歯科衛生士が言い返したこと(retort)は、「えっと、私が謝った方が良いってことですか?」と問い返します。この返しに歯科医は絶句します。歯科医が放った「私、間違ってますか」という問いは、間違ったことを認めさせ、その後に謝罪させるための問いだったのです(そして気持ちをすっきりさせるためです)。それを見抜いた歯科衛生士が、謝れば気が済むんですよねと、歯科医の気持ちを見透かし先に返したのです。気持ちを見透かされた歯科医の方は、沈黙することになり、その後他の歯科助手に同意を求めるシーンへと続きます。

こういった形で物語では修辞疑問の例がいたるところで見つけることができます。これらを見つけながら、どのような問いなのか・答えなのか、それらはどのような目的・効果があるかなどを考えてみるのも議論術を学ぶ練習になります。

まとめ

今回は「レトリックと詭弁」から議論術の紹介でした。

以上

【関連するリンク】

www.prj-alpha.biz

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