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「レトリックと詭弁」から議論術を考える①

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今回は香西秀信「レトリックと詭弁」から議論術を考えていきます。 

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

レトリックと詭弁 禁断の議論術講座 (ちくま文庫 こ 37-1)

 

「護心術」としての議論術

著者はまえがきの中で、「護心術」という言葉を用いて議論術を学ぶことの意義を説いてます。人間は論理的な生き物であり理屈を通すことを重要視するがゆえに、自分が論理で説得されることを嫌うのです。

だから最も重要な論理で、理詰めで説得されることをあたかも精神の敗北のように感じ、それを自分で認めたくないわけです。
(まえがき: P7)

逆に議論に勝つことが喜びをもたらすのであれば、議論をむやみに他人に吹っかけてくる人間が当然います。論破とか言ってくるタイプの人ですね。このような人々から、言葉によって自分の心を護るために議論術を身につけようと言っています。

この理詰めで説得されることを嫌がるというのは実感としてわかります。そこに反論の余地がなければないほど、大きな敗北感とそれに反発する感情が生まれます。また議論ではなく感情の操作によって説得されることは、理詰めの場合とは逆に問題とならず、むしろ快感を与えます。
この辺りの特性を考えると誰かを動かしたい場合、理詰めだけで説得するのではなく感情にも働きかけることがより効果があります。理詰めの部分も反論の余地を残したり、一部はあえて自ら負けるように仕掛けておくと、反発が少なく動かしやすい状態になるでしょう。
会社で考えてみると管理職・マネージャーは「権限を利用して人を動かすこと」ができます。このとき、「私には権限があるから動きなさい」という理屈は、部下・メンバーにとって時には反発を生みます。そうならないように感情に働きかけておき、権限という理屈ではなく、求められて動いているという状態を目指すと良いかもしれません。
話はずれますが、更に発展して部下・メンバーが自分の意志で動いているという能動的な状態を築けることは、リーダーシップの一つの形態と見ることもできます。

問いの技術が議論を制する

本書では「問いは議論を制す」として問いの問題に多くのページを割いています。
議論における問いには大きく2つの区分があると説明しています。1つは知らないことを尋ねたり整理するための単なる情報の要求、もう1つは何事か論証しようと意図を含んだものです。この意図とは相手をうろたえさせたり沈黙させたりしたり、他の聞き手に相手の議論に関する不信感を抱かせたりするものです。

こうした場合の問いは、何かわからないことについて説明を求める体裁をとりながら、痛烈な反論として、あるいは聞き手に与える論拠として用いられる。
(第一章: P19)

単なる情報の要求のように「何かわからないことについて説明を求める体裁」をとっているため、答える側は問われたことに対して答える必要が出てくることになります。このように疑問のかたちをとっていながら、その疑問の内容を聞く事が目的でない問いは修辞疑問として紹介されます。
また問う側の大きなメリットとして、問いに使用する言葉を自由に選択できるというものがあります。今回はこの2つを中心にして考えていきます。

議論における修辞疑問

本書の中で修辞疑問の例をいくつも取り上げられています。「どうやってそれをやれというのか」、「誰がそんなことをやれと言った」といった反語的なものや、「ここをどこだと思っているんだ」といったわかりきってることを聞く問いもそうです。

問いの形式による効果

反語的な表現やわかりきっていることを問いの形式にするのは、どのような効果があるのでしょうか。議論において問いにすると、形式上、問われた相手は答えることを要求されます。答えることを要求されため、何か対応する必要が出てきます。
このとき問いに答えられないこと、沈黙してしまうことは口頭での議論において致命的となります。

問いはその形式上の約束として、それに対する答えを要求します。だから、問いに対して沈黙した人は、問われたにもかかわらず答えられなかったということになり、その沈黙を敗北の証拠として言質に取られてしまうのです。
(第二章: P78)

現実の議論においては勝敗を判定する審判はいませんが、沈黙は少なくとも暫定的な配所を認定する指標となりうるのです。その議論を聞いてる他者にはそのような印象を残すことになるでしょう。

また問いに答えられたとしても、その回答自体が問う側にとって有利に働くことがありあます。問う側は自分に都合の良い言葉を使いながら、相手から「自分の言葉で確認させ、その言質を取る」ための回答を促す問いを行うことがあるのです。このとき問う側はわからないことを聞いているのではなく、どのような回答をするかをわかっていながら言質を取るために問うのです。

こちらの知らない答えを聞くためではなく、こちらがあらかじめ承知している答えを確認するために、そして多くの場合、相手がその答えを選択できず沈黙に追い込まれるのを誘導するために問われます。つまり論法としての問いは、本来の問いの機能として働いているのではない。
(第二章: P63)

修辞疑問は、問いの形式をとりながら、答える側に自分の言葉で確認させその言質を取ることを目的とした問いであり、更には答える側が答えることができず沈黙に追い込むための問いです。

出された問いにどう応じるか

ここまで修辞疑問の効果を確認しました。それでは答える側はどのように対応すれば良いでしょうか。本書の中では、あえて無理な答えを返してしまうという方法も強引なやり方として説明していますが、「答える」(answer)ではなく「言い返す」(retort)ことを説明しています。

「はい」か「いいえ」を要求する問いに対して「はい」か「いいえ」で答えるのが『answer』であるならば、『retort』はそのような問いの妥当性を、あるいはそれを問うという行為の是非を問題とします。
(第一章: P31)

例えば、 「その問いの内容自体がおかしい」といった対応です。
また問いそのものが引っ掛けの場合、答えること自体が敗北につながるので、その問いを壊すように言い返すようにします。AとBの定義が曖昧な状態で、AかBかを答えさせるような問いです。このような問いに回答すること自体が引っ掛けです。AかBか回答した後に、問う側はAかBの別け方がおかしいなどといった追及が可能となり、それについて答える側は更なる問いを受ける状態に追い込まれる可能性があります。そこで回答を行う前に、AとBとは何かを問う側に言い返すことで、その状態に追い込まれることを避けることを説明しています。

問う側は好きな言葉を使用できる

問う側の大きなメリットとして、好きな言葉を使用できるというものがあります。

問いを構成する言葉を自分で選ぶことができるということです。答える側は、こうして選ばれた言葉に合わせて、その問いに答えなくてはなりません。この事情が、議論の中で、問う側を格段に有利にしてしまうのです。
(第一章: P20) 

 本書で紹介されている事例を使いながら確認していきたいと思います。

二極化・相対化による操作

AとBという2人の人がいたとして、どちらの言うことを信じるのかと問われる状況という前提で言葉を変えながら考えていきます。ここでは「言い返す」(retort)ことは考えず、問いに「答える」(answer)ことだけを考えます。

まず初めに「AとB、どちらの言うことを信じるのか」という問いを考えます。この場合、答える側は「A」か「B」といった形式で回答することが多いかもしれませんが、「Aの方をより信じます」といったり他の表現で回答することができます。これは問う側からすると、予期せぬ修飾を伴った回答がくる可能性があることになります。

次に「AよりもBの言うことを信じるのか」という問いを考えます。この場合、答える側は「はい」か「いいえ」で回答することになります。この問い方にすると回答の仕方が上の問いに比べると狭まります。この問いでは「Aよりも」という言葉により、「はい」(Bの言うことを信じる)と答えると「Aの言うことも信じてるが」という意味が含まれてきます。AとBに関して相対化した表現にすることで、より比較が強調された印象を与えることになります。

次に「Aの言うことは信じないが、Bの言うことは信じるのか」という問いを考えます。こちらも「はい」か「いいえ」で回答することになります。この問いでは「Aの言うことは信じない」という言葉により、「はい」(Bの言うことを信じる)と答えると「Aの言うことは信じない」という意味が含まれてきます。このように二極化した表現にすることで、答えるのを難しくしたり答えることで言質をとることができます。

現実では議論の流れの中で問うことになりますし、答えることなります。また気付きにくい表現になっていることも多いでしょうから、どのように問うか答えるかを意識していないと不要な痛手を被ることでしょう。

人物の表現を変える

ある人物を示すとき、その人物の名前以外にも色々な表現があります。本書の中では以下のように言っています。

人間は、場によって異なった資格・職能をもつため、同一の人間がその場に応じてさまざまな「名」で呼ばれうる。
(第一章: P24) 

このことについて、「AとB、どちらの言うことを信じるのか」という問いの「A」や「B」を人物などの表現に変えてどうなるか考えてみます。

例えば、「先輩と後輩、ちらの言うことを信じるのか」という表現はどうしょうか。2人の関係性を持ち出し、経験値が豊富な方が有効である、と問う側が意識して発しているのです。他に「ベテランと若手」など色々と考えられます。
「頭の固い人と斬新なアイデアの持ち主」とするとどうでしょうか。この表現の場合は、経験値が足を引っ張っているのでは、と問う側が意識して発しています。

他に人をグループ化した名称を使用することもあります。「賛成派と反対派」「推進する人たちと保守的な人たち」といった表現です。注意したいのはグループ化の名称はある種のレッテルをはるのに有効になってることがあります。例えば「反対派」という表現は全てに反対しているかのような印象を与えますが、現実ではある一部分に関して反対しているだけのことが多いでしょう。レッテルをはることで問う側はなんらかの方向性へ議論を向かわせるようにすることがあるのです。

個人とグループを並べること表現もあります。例えば「社長と反対派、どちらの言うことを信じるのか」はどうでしょうか。片方は「社長」というその人の組織内での地位、もう片方は「反対派」という意見に対する姿勢・属性の表現です。本来比較される対象でない名称をあえて並べて問いを行っています。「何を言ったか」より「誰が言ったか」が重要になるような組織や場面においては、このような表現が強烈に有効になることがありますので、気を付けましょう。
ここで気を付けるというのは、相手が使ってくることもあれば、自分でも使ってしまうことがあるからです。このような問いをすることで、相手が言い返してきた場合、自分が苦しくなる立場になることになります。本書ではこのような表現は詭弁として注意するように促しています。

間違った問いの可能性

問う側の言葉によっては問いそのものが間違っていることもあるかもしれません。

例えば「なぜ日本にはグーグルが生まれないのか」といった問い方を考えてみます。グーグルではなくアマゾンやアップルとしたり、またはそれらを併記してることもありますし、スティーブ・ジョブズといった人名のこともあります。これは日本という国でグーグル(のようなIT企業、といった意味で問われることが多い)が生まれない理由を何かという問いになっています。
日本と指定していますが、日本以外の国ではどうでしょうか。それを考えるとアメリカ以外で生まれていないというのが正しいようです。その場合、「なぜアメリカにはグーグルが生まれるのか」または「なぜアメリカ以外にはグーグルが生まれないのか」、あるいは「アメリカでは生まれるのに、なぜ日本にはグーグルが生まれないのか」といった問いの方が適切なようです。
この問いの場合、事前に「アメリカでは~」という前振りがあったりと前後で議論されていることの方が多いでしょう。ここで意識しておきたいのは、受け入れやすい言葉によって、間違った問いになっているかを見落とさないことです。

まとめ

今回は「レトリックと詭弁」から議論術の紹介でした。

以上

【関連するリンク】

www.prj-alpha.biz

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